【4.成人教育と大学】
「成人教育と大学」ということでは、日本の大学の大きな問題は、成人教育部門の整備が遅れたということです。だいぶ変わってきましたが、まだまだ日本はアジア諸国なんかに比べても問題を抱えているところがあります。
イギリスの旧植民地と申しますか、今日で言えば英連邦というものを構成しているところ、アメリカやカナダも含めて、そういうところはやはりイギリスの19世紀後半のUniversity Extention、いわゆる大学拡張以来の伝統を承けて成人教育に熱心なところが多い。大学があれば成人教育部門というものを持っているというのが普通の姿になっています。
スウェーデン、デンマーク、あるいはノルウェー、さらにはドイツなんかでは既成の大学に頼らずに民衆大学を作ってしまうということが行われました。そのため大学での成人教育部門の整備というのはイギリスに比べれば遅れたところがありますが、その代わり今申しましたように、民衆大学という形で充実したものがあちこちにあるわけでございます。
そういうところに比べると、日本では確かに、戦後公民館ができ、もちろん公民館は子どもも使うことができるわけでございますが、やっと成人の学びの館というものがそれなりにできました。しかし、皆様方もご存じのようにこの周囲を見回して、公民館がないところもたくさんあります。小学校区、あるいは中学校区に一つというのが公民館の目指すべきものとしてあったわけですけれども、それが実現されているところと実現されてないところがあります。結構大都市部はそういうものが欠落しているというようなこともございます。
また、大学ということになれば、先ほどから申していますように、これまで青年が学ぶ場という位置づけがきわめて濃厚でして、成人教育ということについてあまり意識せずに、せいぜい公開講座をやってきた。しかも、それは教員が本来的には正規の学生を教えるという役割を持っているわけですから、どうしても公開講座の方は手が空いているときにというような感じになります。そうなりますと、本当に系統的に学ぶというような形にはならずに、断片的なものが大変多かったのです。これまた自分に跳ね返ってくるんですが、京都大学でも春秋講座であるとかいろんな形で公開講座をやっているんですが、どうしても先ほど申しましたようなことで系統的なものにならないきらいがありました。例えば、ある時は「流れ」をテーマにして講座をやるというわけです。経済学部からも出てくれ、教育学部からも出てくれ、あるいは理学部からも出てくれということになるわけですね。そうすると、年1回程度ならば、というのでそれぞれから誰かが出てくる。そうすると、「流れ」というので経済学部から出てくればお金の流れについて話す。理学部から出てくれば文字通りそこに流れている川について話す。これは系統的にはつながってないですね。確かに、言葉ではつながっているけれども、というようなことになりやすい傾向があったわけです。
そういう中で、やはりきちんと成人教育というものを意識した取り組みをしなければならないし、それに専念するというか、そのことに長けたといいますか、そういう教員配置というものを考えていかなければならないということがあります。
イギリスの場合は多くの大学にデパートメント・オブ・アダルト・エデュケーション、成人教育部がありました。大学には、いろんなデパートメントがあります。例えば、法律についてのデパートメントとか、あるいは芸術についてのデパートメントであるとか、文学についてのデパートメントであるとか、いろんなものがありますが、それと並んで成人教育を扱うデパートメントがある。日本ではそれがなく、やっと1980年代ぐらいからポツポツ大学教育開放センターとか、最近では生涯学習教育研究センターといった名前のセンターができていますが、残念ながら教員の配置は1人とか2人とかです。徳島大学は割合スタッフがいたのですが、これは、徳島大学は教育学部をなくして、鳴門教育大学ができたもんですから教員養成をそちらに移したということがあって、スタッフにゆとりができたということで、比較的人数の多いセンターになったのです。
勿論ユニークな活動をしている大学はたくさんございます。長崎大学であるとか和歌山大学であるとか非常によくやっている。ただ、やはりどうしても限られた活動になります。
さらに私学になりますと、先ほど龍谷大学のエクステンションセンターについて申しましたけれども、仏教大学は四条烏丸のところのビルのワンフロアーをとって四条センターを持っています。そこで公開講座をやっています。そういう専用施設を持っているのは大変素晴らしいし、それに事務部門も割合しっかりしている。ところが、専任の教員がいないというような状況が日本の多くの私学ではまだ続いています。
成人学生の受け入れは、確かに一方では進んできましたけれども、ほんとうに成人学生というものに対応した教育というものが行われているのかどうか。若い学生の指導に当たってきた教員が、ほんとうに成人の人たちにとって適した教育方法なり教育内容で関わっているのか、自分自身も省みながら常に思います。成人は経験豊富で、なおかついろんな職業活動をしてきた人も多いわけですから、それを活かした形でやるべきで、そうした方が本人にとっても効果的であるし、またそれによって若い学生もいろいろ刺激を受けるところがあります。
そういった方法というようなことも含めて、まだまだ私たちの大学、あるいは大学院というものが成人をコアに据えて、そしてそれに即した形で教育を考えるようになっているかどうかというところが問われるわけでございまして、こういった国際人権大学院大学のようなものができればそれの一つの大きなモデルというものを構築できるんではないかというように思っております。
大学院では先ほど申しましたように、多くの国々ではパートタイム学生が中心になっていってるということがあります。ただし、パートタイムは夜間とは限らないわけでして、イギリスなんかでパートタイムの学生とフルタイムの学生が昼一緒に学んでいるというような姿はよくありました。どう違うかというと、大学院レベルの話でございますけれども、たとえばフルタイムの学生は週に2日出てくる。ところが、パートタイム学生は週1日だけ出てくる。だから、パートタイム学生は倍の期間がかかるということです。週1日だったら休暇を取って出てこられるということでございます。そういうような形態もあります。
日本の場合はなかなか休暇を取りにくいということになるのかも分かりませんが、ご存じのようにILO(国際労働機構)の方では、もう1960年代ぐらいから有給教育休暇制度という、給料をもらいながらも教育のために休暇を取ることができる制度を提唱してきて、ドイツであるとかイタリアであるとかいろんな国々でそれを採用してきたということがあります。
私たちでも有給休暇を勤め人の場合は持っているわけでございますけれども、これは休養のためというか、実際自由に使っているわけですが、そういう休暇はあるわけです。しかし、教育のために、それとは別個に休暇を取るという、そういう仕組みは日本ではなかなか普及しない。
日本青年団協議会が有給教育休暇制度の導入について一生懸命運動を起こしていた時期があります。今や青年団といっても昔のように農業青年が主体ではございません。農村へ行きましても役場に勤めていたり農協に勤めていたりという人たちが多いわけでございます。そうすると、青年団活動をやろうとしても、やっぱり休暇を取らないとなかなかできないわけです。青年団の活動は、自分たちの学びともつながるし、さらには社会貢献にもつながっている。そういうことから、有給教育休暇制度を日本にも適用できないかというので、日本青年団協議会ではいろいろ政界の方にも働きかけをしたようでございます。ただ、政界の雰囲気としてはやや冷たいところがあり、日本では普通の有給休暇さえもほとんど消化されていない実態がある中で、とても有給教育休暇を提案したって通りそうもない。こういう政界の反応が強かったようです。
確かに、私たちの場合はなかなか普段、有給休暇さえも消化できないでいるというところがありますから、何か有給教育休暇というと絵空事のように思われますが、これを先ほどから言っています権利としての学び、あるいはもっと言えば人間らしい生存、あるいはこういう社会の中で、みんなでいい状況というものを作り出すための学びというものにつなごうとすれば、有給教育休暇などの発想というものを一概に切り捨ててしまっていいものなのかと思います。有給教育休暇の仕組みというものが、日本でいつ本当に日の目を見るのかということが注目されます。不景気になれば、否応なしに、有給ではなく無給教育休暇を持っている人があるかもしれませんけれども、まさに学びも一つのこういった人間として生きる中にきちんと位置づけられるということが大変大事になってきていると思います。そういうなかで、多くの人たちが働きながら学ぶことができる仕組みというものをきちんとしていくということが大事です。
従来、ともすると日本の場合は企業内教育に大変依存してきたという面があります。終身雇用制といっても実際は終身雇用じゃないのですが、他の国々に比べてそういう仕組みというものが割合強固としてあったため可能であったのでしょうが、雇用が流動化していきますと、きっちり企業内教育をやろうとしても、その対象になる人が果たしてどれぐらいあり得るのかということも問われてきます。
契約社員などが多くなってきたり、流動的な人たちが多くなると、この人たちの職業教育も含めて誰が保障をしていくのかというようなことも大きな課題になってきまして、まさに、こういった人々の学び続けることを保障するためにも、何らかの公的な教育機関がきちんと整えられなければならないということになります。
多くの国々がそういった課題に応えるための教育機関を整備していっています。日本では高等職業技術専門校などがありますが、職種が限られているというようなところも問題ですし、改めて本当に生涯にわたって様々な技術、知識の変遷の中で学び直すことができるということが求められています。
ついでに申しますと、先ほどスウェーデンの大学に成人が大勢入ったということを申しましたけれども、その人たちがいわゆる学位と申しますか、日本で言えば大卒の資格といいますか、そういうものを求めて入ったということではどうもないようでありまして、かなりの人たちは今まで身につけていたものをさらに深めるたり、新たに身につけるということも含めて、どのようなレベルの職業技術を自分が身につけるかなど、職業技術を新たにするコースに学んでいます。つまり、何が身についているかということが、雇用では非常に重視されます。学位といった紙の問題じゃなくて、何を学んできてどのような力を持っているかということが問われるのです。
日本も幸か不幸か問題も多いわけですけれども、労働力の流動化が起きてきている段階においては、まさに、本当にそういう人が何を身につけているかということが問われるようになってくるということがあり、そうなればなるほど成人も含めての学びの機会がきちんとした機関で保障される必要があるということになりますし、それがその人の人権を守るということにもつながっていく。
そういった学びと関連させながら人権について学ぶことは、さらに職業技術が単なる技術で終わるのではなくて、社会の中での職業の位置づけを明確にし、なおかつ社会全体にとって意味のあるものにしていくことになるでしょうし、また、自分自身が自らの人権を守るとともに、他の人々の人権を支えていくということになるのではないかと思います。そういう意味でもこの人権大学院大学の設立に大きな期待が寄せられています。
さらに言えば今、成人教育者、成人教育に当たる人の養成は、多くの国々で大学院レベルの問題になってきているということがあります。日本でも教員が次第に大学院レベルでの教育を前提とするように動きつつあります。教職大学院も出てきております。多くの国々で大学は、職業教育というよりも一般教育を中心とする。アメリカはその傾向が強いわけでございます。そして、いわゆるプロフェッションと言いますか、専門的な職業教育は学部卒業後の機関に委ねられる傾向が出ています。やはり、幅の広いものの見方ができるような人間形成が大学レベルまで求められるようになってきています。
そこで、職業教育は、さらに大学院レベルに求められます。ポストグラデユーエーションといいますか、要するに、卒業後の機関、典型的には大学院に期待されるということになります。もちろん分野によっても違いもありますし、様々ですけれども、教職であればやはり幅広い教養を持っている人が、さらに大学院レベルで教育学等について学んで、初めて教育者としてふさわしい存在になるだろうということが考えられています。
いろんな学びをした人たちが、さらに大学院レベルで深い学識を高めていって、そして、その分野での専門的な力量を発揮できるようになっていくということが今日的な課題でして、人権を考えましてもいろんな分野からのアプローチが必要です。法学を学んだ人はもちろんのこと、教育を学んだ者、社会学を学んだ者、あるいは心理学を学んだ者が共に取り組む。心理学が、例えば人権問題、差別、そういったものにも取り組むことが日本ではどうも目につきにくい。これだけ心理学ブームでありながら。むしろ、だんだん社会から目を閉ざしてもっぱら心の内面の方に傾斜するのに寄与してしまっているんじゃないかというようにさえ思ってしまうことがあります。
アメリカに限らないわけですが、いろんな国々で差別問題であるとか、あるいはこの頃は人種問題というよりもむしろ民族問題、アメリカであれば黒人と白人との関係の問題であるとか、いろんなそういった問題に心理学的なアプローチでいろんな研究が行われてきているということもありますし、なかんずく社会心理学は偏見といったような問題にも取り組まなければならないことは当然でありますが、そういう面でのアプローチはまだまだ日本では十分ではないのではないかと思っております。いろんな分野で培ったものが人権というところで統合されていくと言いますか、あるいはそれぞれのそういった諸分野に人権の視点が明確に通っていくという機会は、国際人権大学院大学のようなものができないとなかなか実現しないだろうというように思っております。
そして、そこで成人教育者も養成されることによって、私の関係分野でもあります人権教育についても、一般の人々に人権についての意識なり、あるいは様々な知識、態度の広がりが期待されるんではないだろうかと思っております。そういう意味でも、国際人権大学院大学において成人教育者の養成ということも大いに期待されるところであります。
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