【5.成人教育における人権教育】
ところで、成人教育における人権教育ということになりますと、具体的な私たちの生活課題の取り組みとの関わりを見ることが大変大事です。今朝のニュースでも言っていましたが、東京の渋谷の温泉で爆発が起きて、従業員が亡くなっているというようなことがあり、生命・安全、そういったものをどのように守るか、あるいはそのためにどれだけ条件整備がなされておるかというのはまさに人権に関わることです。そういったことはいっぱい私たちの周りにあって、生活課題が実は人権と非常に結びついているというところに目を向けていくということが成人教育の場合に大事です。
何か生活は生活、人権は人権というようにまだ切り離して捉えているところはないでしょうか。最近は職場研修におきましてもそれぞれの職務との関わりで人権を考えていくという傾向も強くなってきたかと思います。もちろんそれに尽きるということではないわけですが、やはり私たちも生活課題との関わりにおいて捉えていくということがあって、初めて成人、一般への広がりというのが出てくると思います。だから、一般の成人の様々な経験であるとか、あるいは実践というものとを絡ませてどのように人権教育というものを構築していくのかが課題です。
リーダーがいても、特定の人が他人に働きかければそれですむ問題じゃございません。やはり、学んだ人たちが相互に交流し合う、もっと言えば、相互に教え合い、学び合いが広がっていくということが大事でございますし、まさにそれが成人教育の根幹をなさなければなりません。相互教育を促進していくためにどうすればいいかというようなことについて、いろいろな方法が開発されては来ているのですけれども、必ずしも十分ではない。ややゲーム的なものに傾斜しすぎてしまっているんではないだろうかとか、もっと本質を突いた形での相互教育はどうすれば可能なのかとか、そういったことについても研究し、学ぶ場が求められます。
さらに、先ほども申しましたように成人教育ということになれば、実は地域もさることながら職域における教育が重要な場です。最近の調査でも明らかになっていますけれども、成人、特に男性の場合は人権教育を受けたのが職場であるという答えがほかに比べて率が高いのです。つまり、地域ではなかなか参加できないということも影響しているんだろうと思いますけれども、職域で初めて人権教育に触れている人たちが決して少なくない。職域における人権教育は、まさに成人教育の中で非常に重要なものとして意識されなければならないし、またそのような教育が促進されなければならないということです。
そういう意味におきまして、成人教育といえば地域での教育だというように狭めてしまうのではなくて、職域における人権学習のあり方、それも様々な仕事などとも関連させながら、どのように学びを進めていけばいいのかが問われます。もちろんこれは職場研修に限らないわけで、職域の中でもっと様々な自由な学びということももちろんあっていいわけです。職場研修も含めてそれらをどのように組み立てていくかというようなことについては、それぞれでこれまでも工夫され、苦心されてきたところではありますけれども、もっとそれを本格的に研究し、交流し、さらにそれを学んだ人たちが職域で活躍できるような状況を作っていくということが大変大事でして、まさにそれが国際人権大学院大学で可能になってくるのではないかと思われます。
なお、成人教育の中で見落としてはならないのが成人基礎教育です。成人基礎教育という言葉は、国際的に使われている割には日本ではどちらかというとあまり使われてこなかった面がありますが、今やこの言葉をもう少し私たちは意識しておく必要があるだろうということです。典型的には識字、日本語学習なんかはその一つでありますけれども、それに尽きるということでも決してないということですね。それを抜かしてはいけないけれども、それだけではないということです。
つまり、今日、成人が生きる上において最低限必要とされているもの、もちろんレベルの問題があるから簡単には線が引きにくいわけですが、要するに、成人が一個の人間として、一個の社会人として生きるのに必要とされているものをどれだけ身につけているかということです。それを保障していくのが成人基礎教育であります。
本来は文字を知らなくても差別されてはいけないということがあります。現に無文字社会もあり、そこは文化が低いなんてことはとても言えないということでも示されているわけです。しかし、現実にはわれわれの社会は文字を知らないと、例えば危ない場所には「危険」という看板が立っているだけで、あと誰もそこに立って制止してくれないし、ましてそんなことまでしなくてもいいというように思われてしまっている社会です。また、インドのようにシンボルマークで投票するということが認められている社会でもない。ならば、やっぱり文字というものの習得ということが自分の身を守るためにも、あるいは権利を行使するためにも欠かせないということになる。
そういう意味におきましても識字あるいは日本語学習は、典型的に欠かせないものとして保障されなければなりませんし、さらには、今日の職業一つを考えましてもアルファベットを知らなければコンピュータが操作できない。コンピュータが操作できないと仕事そのものにもなかなかありつけないというような状況にもなっている。コンピュータリテラシーという言葉もありますが、リテラシーという言葉を従来は識字と訳してきたし、識字を大事にしなくてはなりませんが、さらにそこを出発点としながらの基礎的な力としてのリテラシーという言葉が日本で意識されていないという問題があります。今、とりくみの真っ最中である国連識字の10年の中でも、法のリテラシーであるとか、あるいは科学のリテラシーであるとか、情報のリテラシーであるとかということが強調されています。
つまり、従来の識字といえば文字の読み書きで、もちろんそれは基本でありますが、さらに、法律についての基礎的な知識、あるいは情報についての基礎的な知識・技術、あるいはサイエンス(科学)についての基礎的な知識・技術というものを保障しなければいけないということをまさに国連識字の10年の中で強調しているわけです。
それは大学院レベルの話ではないというようになるのかもしれません。もっと言えば、本来、夜間中学も含めて義務教育できちんと保障すべきであり、あるいは高等学校教育をすべての人に保障することで可能になるものだということにはなるかと思いますが、現に必要としている成人は少なくなく、どのように成人基礎教育を進めていけばいいか、成人にそれをどう保障していくかということになれば、やはりそれをしっかり研究する、あるいはその指導者といいますか、援助する人といいますか、そういう人々を育てるための大学院が必要になってまいります。
さらに、もう少し付け加えるならば、成人基礎教育で学ぶ人たちには、夜間中学は確かに義務教育ということで中学を卒業できなかった人たちにとってみて大事な場でありますけれども、さらには成人として学び続けることも保障されなければなりません。夜間中学ですと、やはり今の段階では何年かすれば卒業というか、出ることが求められてしまう在学期限というのがあります。そういうようなこともあり、後はもちろん社会教育等でその場が保障されることが大事ですが、さらには成人の学ぶしっかりした教育機関がもっとあっていいんではないかと思います。
イギリスには継続教育カレッジというのがあります。もともとの出発点は義務教育を終えただけで社会に出て行った人たちに職業技術を含め、きちんと教育をしないといけない、ということから作られたもので、もちろんパートタイムの人が非常に多いのですが、フルタイムの方もいます。しかし、それが次第に決して青少年だけでなくて、成人がいつでも学べる場、生涯にわたって学べる場として今発展しています。
日本でそのようなことを意識した教育機関が今は意外に少ない。人権大学院がそういう機能を果たすかどうかというのは、また別問題ですけれども、そういったしっかりした教育機関のあり方そのものも検討しなければならないということであります。このように、人権としての教育をどう考えていくのかということについての研究は、やはり人権大学院大学などで行われることが大変期待されます。
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