【2.これからの高等教育機関はどうあるべきか】
大学・大学院といった高等教育機関は、明治以降、近代国家の建設の過程で、富国強兵を目的にスタートしました。戦前の旧制高校がいろいろなところで取り上げられておりますが、いわゆるドイツ哲学や一般教養を重視した流れがあるのです。また、陸軍・海軍の職業軍人の養成のために明治以降の教育が始まっており、現在の大学にも一般教養科目というか、哲学的な旧制高校的な流れが残っているのではないかと思っております。
さらに、最近は大学の数が増えたことを踏まえ、レジャーランド的な、教育を必ずしもしなくても大学を卒業させるというように、悪い意味での大学の流れもあるのではないかと思っております。
日本の場合、国立・私立も含めて伝統のある大学は、学生と大学との関係は行政行為的な色彩が非常に強く、いわゆる行政行為としての学生の選抜、運営がなされています。しかし、現代にあっては、一般に言われているように、それを給付からサービスへと脱皮していかなければならない時期なのではないかと思っております。
例えば、大学の講義をみても、教授が海外出張などに行く場合、学生側の承諾を得て休むのではありません。そもそも学生の要望によって科目の先生が決まるのではなく、大学の都合で決まるのです。ですから、途中から先生が変わるといった場合でも、学生側の言い分が何ら通ることはありません。これも時代の流れで、変わっていかざるを得ない時期にあるのではないかと思います。そういう意味で、高等教育機関が国家目的達成の機能から、その時々の教育を受ける学生のニーズに応じたサービスへと変わっていかざるを得ない状況にあるのが、昨今の教育の実態ではなかろうかと思っております。
アメリカは、州立大学が多いのですが、それは設立段階と資金の援助という面において、州の資金を使っているだけであり、その運営方法は学生のニーズに応じた運営を行っています。また、学生には単位や学業を厳しく要求しますので、カリキュラムを消化できなければ、落第や退学をせざるを得ないというようになっております。日本もそういう方向への転換を迫られつつあるというのが、今の高等教育ではないかと思っております。
アメリカでは、教育を受けることが社会に出る自分の目的との関係で一つの投資です。企業というのは、新しい商品を作るための品質の向上や生産性アップのために、投資としてお金を使う。いわゆる人的資本論というわけです。教育もその人間にとってはマンパワーに向けた投資です。そういう関係がアメリカの教育の主流であります。そうなりますと、学生が授業料を払うのは何のためか、何のためにその学校でその科目を勉強するのかという点を基準として高等教育の現場を変えていく方向へ向かいつつあるのではないでしょうか。
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