2003年度総会記念講演「国際人権大学院大学(夜間)の設立に期待するもの」
〜21世紀の人権課題から〜 江 橋 崇 (法政大学教授)
【1.日本社会は拉致被害者の人権侵害問題にどう対処してきたか】 こんにちは。ご紹介いただきました江橋でございます。こうした場で発表させていただく機会を与えていただき、ありがとうございます。 私としては、地域、国際・国内中央政府といったような地域や地方政府、地域のNGOという立場から、この国際人権大学院大学(夜間)に期待するものについてお話しするのが私に与えられている課題であると考えております。そこで、日本社会は拉致被害者の人権侵害問題にどう対処してきたのか、そういった話から始めさせていただきたいと思います。 横田夫妻が法務省人権擁護局に行き、「うちの娘が拉致されたので何とかしてくれ」と言ったときの人権擁護局における答弁の話が、横田さんの妻が書かれた本に載っております。横田夫妻は、これは人権問題だから、人権擁護局から、外務省に何とか言ってもらいたいということのお願いに行ったんです。 そのときの法務省人権擁護局の立場は、「うちはお役所にものを言う立場ではありません。外務省は日本国憲法のもとにつくられているのですから、人権を守るのは当たり前です。だから、法務省から言うことはありません。うちがやっているのは民間における人権侵害です。」と。彼女たちはガクッとして帰ってきたという話が載っています。 何が言いたいのかといいますと、まず考えなければいけないのは、今、人権というボールは我々の側にはなくて、国・政府側のコートにあるということです。皆さん、日本で最初に人権という言葉が本気で使われたのは何かご承知でしょうか。それは明治5年のマリア・ルース号事件のときでありました。マリア・ルース号事件は、ポルトガル領のマカオで中国人を人身売買して買い取ったペルー船籍の船が横浜に停泊しているときに、1人脱走して日本本土に上陸してしまったという事件です。それが発端で、横浜港に停泊しているそのペルー船籍の船が奴隷船だということがはっきりしたわけです。 ときの神奈川権令の大江卓は、外務卿(外務大臣)の副島種臣と組んで、何とかこれを救出したいと思いました。司法卿(法務大臣)であった江藤新平は、一応人権派で近代派ではあったのですが、この事件の時はどちらかというと妥協的な立場でした。しかし副島種臣と大江卓が、日本は人権を守るという国家のメンツをここで貫き通さないと条約改正交渉もうまくいかないと頑張ったわけです。 しかし、当時は不平等条約のもとにあり、またペルーとは条約も結んでいませんでした。そして、最初の奴隷はイギリスの軍艦に逃げ込んでイギリスの軍艦が日本に渡したのです。そしてアメリカが猛烈に怒り、ペルーの側に立ってプレッシャーをかけてきました。日本政府は何とか奴隷を救いたいと考えましたが万策尽きたわけです。つまり、日本はペルーと国際条約がないので条約上の義務の履行が迫れない。そして、日本の国内法で対応するといっても、国内法がおかしい。当時は人身売買で買われて売春をしている、いわゆる娼妓契約の女性が横浜にもまだたくさんいたわけです。 裁判で「こんな国内法を持っている国は何だ」と言われたときに、どうしようもなかったという日本は国内法もうまく適用できず、慌てて奴隷解放令、娼妓解放令をこの事件のあとに出しました。 そういう時代で国内法も国際法もダメ、しかも相手は強国アメリカが後ろについている状況で最後に日本政府がたどり着いたのが、人身の自由という超実定法的、超国際法的な裸の人権の主張でした。大江卓は果敢にも「人身の自由を守れ」という一言をもってアメリカと戦い、結局裁判に勝ちました。これが日本における人権が最初に言われた事件です。その後、自由民権運動が起きましたがご承知のとおり自由民権運動は政治的権利を主張して、政治的権利さえ守られればいいのだという主張でありました。
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