国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議
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1.日本社会は拉致被害者の人権侵害問題にどう対処してきたか
2.日本国憲法の基本的人権を実現したのは誰か
3.自治体人権政策の確立
4.国際人権の確立
5.この20年間、私たちは何を求めてきたのか
6.これからどうする
7.国際人権としての「食べる権利」〜一つのケーススタディ〜
8.国際人権大学院大学(夜間)への期待

【3.自治体人権政策の確立】

江橋崇さん その結果、いろんな問題が出てきました。まず何といっても、朝日訴訟について話したいと思います。朝日訴訟を戦った朝日茂さんは偉大な人だったと私は思います。彼は岡山県の津山の結核療養所にいて、当時の生活保護法に基づく医療費の扶助等々がとても足りなくて生きていけないということを訴えた人です。この朝日訴訟で彼は最初、国を相手に「憲法25条生存権で、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利と決まっているのだから何とかしてくれ」と訴えました。つまり人権というものは、国民が政府を相手取って、政府に義務があるのだということを貫いていくものだということを裁判でしようとしました。しかし、周りに足を引っ張られたわけです。
 もちろん役所、あるいは結核療養所や様々な自治体からも散々プレッシャーをかけられるだけではなく、そういう国や自治体、自治体の息のかかった労働組合の人たちからは「こういうことでお上を相手に訴え出たりするのは変だ。全国同じ水準で給付がなされているのに岡山の津山で訴訟が起きたというと、津山の事務所がピンハネでもしているのかと疑われて、津山全体の名誉がなくなるからやめろ」などと言われました。
 あるいは、ほんとは療養中の人はアルバイトをしてはいけないのですが、みんな足りないから、病気の人でもできるアルバイトをしていたわけです。すると、その人たちが、「お前が騒ぐといろんなことが点検されて、自分たちがやっているアルバイトもできなくなるじゃないか」というようなことまで言われ、散々嫌がらせをされました。法律家のところに行っても「国を相手に裁判を起こす?人権で?何だそれは?」というので、だれ一人相手にしてくれませんでした。
 そういう中で、朝日さんというのは共産党員で患者同盟の活動家であり、頑張ってやっと見つけた何人かの弁護士と支援者とともに戦いました。一審判決で勝った瞬間、ときの総評、社会党・共産党みんなこぞって人権闘争だと、勝ち馬に乗ったわけです。二審、最高裁では激しく、朝日訴訟全面勝利、国民大行進とかというのに私が学生のころ参加した覚えもあります。そうして一気に国民運動化しましたが、最初は「国を相手に人権で裁判を起こす、何じゃお前は?」という具合だったと思います。それにもかかわらず戦っていった朝日茂さんは、大変偉かったと思います。
 それと同時に、高度成長期、福祉の貧困と公害、都市問題を軸に、市民からいろんな問題が投げかけられてきました。日本国憲法にある人権が守られていないではないかという、上からの教育啓発でないところで運動が起きてきたときに、市民にいちばん近い政府は苦悩させられたわけであります。そういう中で私は、先鞭を切ったのはやはり部落解放運動であり、その部落解放運動の成果として同和行政が確立していったということは、下から人々の苦情に応じて施策を展開していくという行政の義務がはっきりしたという意味で非常に画期的なものであったと思っています。
 さらに、公害の被害者の人権運動もありました。霞ヶ関の官庁街を水俣病の患者のグループがのぼりを立ててデモをしていたのを今でもありありと覚えております。のぼりは真っ黒でした。上のほうに白に一字、怨念の「怨」の字を染め抜いてありました。しかし、公害は新しい問題でした。日本国憲法ができたときに取り残されて社会問題と言われ、国の省庁が面倒を見てくれなくなったのです。でも、社会問題と突きつけられた自治体を通じて結局は国も動かなければいけなかったという問題です。しかし、プライバシーの侵害や公害など、戦後社会の変遷により出てきた人権問題も省庁が全然対応しないわけです。よく省庁は、組織、権限、人員、予算が揃わない限り動かないといいます。
 私は、水俣病の患者が通産省に行っても産業問題だから、システムの問題だからうちじゃありません、医療・病気の問題だからと厚生省に行っても、うちじゃありませんなどと、たらい回しにされるだけで、霞ヶ関の官庁街をむなしく走り回っていたあの黒いのぼりのデモ隊のことを忘れることはできません。
 ですから、当時は非常に激しかったと思います。後にチッソ水俣工場が加害者ということがはっきりした段階で、社長が公害患者、本社に押し寄せた患者の前で土下座して謝るという場面がありました。患者のグループの中には、土下座して謝っている社長や本社の幹部に、突然、一升瓶に白く濁った水が入ったものを机の上にドンと置いて「私らこんな体にされちまった。補償金は一銭もいらん、あんたらこれを飲め。これはあんたらの工場が出してきた工場の廃液だ。あんたらも同じものを飲んで私らと同じ苦しみになれ」というから、サラリーマン社長も真っ青でした。
 続いては、例えばインドシナ難民であるとか、あるいは女性であるとか障害者であるとか、あるいはニューカマーの外国人であるとか在日であるとか、そして中国残留の日本人であるとか、様々なタイプの人が人権、自分たちが差別されていることに関して苦情を申し立ててきました。
 1980年代の初めでしょうか、中央公論に外務省のお役人の色摩さんが論文を書きまして、「これから日本では国際人権というものがあるんだ。そして、国際人権を実現していく主体というのは、国ではなくて自治体だ。なぜならば、自治体こそ市民の生活に関していちばん近い政府としていちばん大きな責任を負っているからだ。これからは自治体が国際人権施策を行っていかないといけない、そういう社会なのだ」ということを言ってくれました。私たちと同じ考えであります。

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