【2.日本国憲法の基本的人権を実現したのは誰か】 日本で人権がもう1度きつく言われたのは明治の末年でした。アメリカに留学している多くの日本人学生は、勉強をしないでアルバイトばかりやっていましたので、日本人留学生は勉強を少しもしないと言ってアメリカ国務長官から日本政府に強硬な抗議がありました。そのころの日本人がどうやってアメリカに行くかと言いますと、ヒッチハイクや人の身分証明書を買ってそれで行けとか、偽造の身分証明書を作って行けという状況でした。日本に向かって不法に入国している人たちと同じことを、当時の日本はやっていたのです。そうしたことから、アメリカからは出国側でもっと取り締まれと、留学生が送り返されました。 そのときに、ときの大日本帝国政府が日比谷公園で開いたのが人権擁護国民大会でした。つまり、アメリカに渡った私たち日系人の人権をもっと守れというアメリカに対する抗議の集会でした。ここでも日本は国際社会においてアメリカという大国に敵わないときに最後に切り出したのが人権だったのです。 つまり、日本はどちらかというと、国際社会で自国の利益が主張できなったときの切り札として「人権」という言葉を使っていました。つまり、人民が政府に対して切り札として「人権」を使うのではなく、国家が「人権」という切り札を使っていたのです。それだけに、日本国憲法公布の前、1945年10月4日の自由の指令というのは大ショックだったのです。自由の指令とは、ポツダム宣言受諾後、たまたま哲学者の三木清氏が治安維持法違反事件により捕まり獄中死した問題で、実は日本は戦争中の治安維持法をはじめとする人権抑圧立法がそのまま残っているという状態から、GHQのマッカーサー司令は慌てて10月4日に、治安維持法の廃止以下がついている自由の指令を出したというものです。 これにはあまりに驚いて、当時の東久邇内閣が総辞職してしまったぐらい当時はショックだったわけです。そのときに初めて、国家は人権を犯す加害者であり得るということが分かったのです。被害者である人民が救済を申し立てて、国家がそれを改める義務があるという、そういう人権という我々にとっては当たり前の図式がそのときは大きな衝撃となり日本を襲ったわけです。 日本国内の運動ももちろんありましたが、残念なことにそれを言ってきたのは進駐軍でした。しかし主要な力は進駐軍であり、そして日本国憲法で基本的人権が定められたときには、だれが実現すればいいのかというと、私は霞ヶ関の官庁しかなかったと思っています。もちろん思想家や運動体、議院などもありましたが、大きな力として憲法というものを実現したのは霞ヶ関の役人たちです。そこで役人たちは日本国憲法を思いきり役人好みにねじ曲げたというのが私の基本的認識であります。 まず、霞ヶ関の役人たちは、日本の省庁に日本国憲法にある人権を全部振り分けました。私はこれを「省庁別人権論」と呼んでいます。労働に関する人権というと、これは労働省へ。福祉に関するものは厚生省へ。教育は文部省ですというふうに全部振り分けて、その省庁だけがその問題に責任を持って、他の所から口出しをさせないというふうに、省庁別に縦割りにしてしまいました。 そのときに漏れた問題がいくつかあります。一つには社会問題があります。例えば男女平等の問題に関していうと、民法を長子相続制から男女平等の相続制に変えて廃止することで憲法14条、24条もOKで、あと社会に残された女性をはじめとした様々な差別はことごとく社会問題。つまり、国はお情けで付き合うことはあるけれど、基本的には責任はないという問題になってしまいました。もちろん部落問題もその一つであったことは言うまでもありません。そうしたことから、省庁別に人権を全部分け合い、そこで漏れてしまった問題は社会問題として放っておくというシステムができてしまいました。 もう一つ具合の悪いことに、「救済をしない司法」というものがあります。日本の法律というものは刑法や民法という権利義務関係の実態法と、刑事訴訟法や民事訴訟法という手続きについて触れている手続法の二つです。しかし、アメリカの法律には3種類あります。実態法と手続法と救済法(レメディー法)です。日本にはレメディー法がありませんので救済をしない司法といいます。 日本の裁判所は、自分の目に前にある問題を原告勝訴・被告勝訴というふうに一応解決します。しかし、それをもとにいかに紛争を解決するか、それは行政庁の仕事だとして日本の司法は関与しません。 アメリカの裁判所は、一度紛争を目にして紛争が訴えられたときは、その紛争が究極的に解決されるところまで面倒を見る、それが救済なのです。そのために実態法と手続法で権利義務を確定します。しかし、こちらに権利がある、こちらに正しさがあるとなった場合はそれについて最後まで面倒を見ます。つまり日本でいう執行判決の部分でしょうけれども、最後まで面倒を見るというのがアメリカの裁判所の救済なのです。日本は行政庁や省庁がバラバラで裁判所も総合的に問題を解決しないということです。 それともう一つ、行政府は悪いことをしないと思っているわけですから、そういう役所が、戦後、一生懸命に日本国憲法の人権について国民に対して教育啓発をしてきました。 また、アメリカ自由人権協会をつくったアメリカ人が日本にやってきて、日本を見てまわり「こういうのをつくれ」と言って帰り、占領軍によってつくられた制度が、人権擁護委員制度です。アメリカの人権委員会は、裁判所も最後まで問題を解決する構えでいるわけですから、行政庁も問題を最後まで解決しなければならないということで独立しており、指示権・監督権・勧告権といった調査権限を持って事柄に当たっています。つまり、問題解決でも最後まで面倒を見ていこうという組織になっているわけです。それに似たものを日本にもとつくれということで、人権擁護委員制度がつくられました。したがって人権擁護委員は、自分が選ばれるときに議会の同意を必要として選ばれるわけです。そこで選ばれた人権擁護委員は、その市町村の中では調査権限や国の意見に対する報告権限、アドバイスの権限を持っている独立した委員会システムであります。 先ほど申し上げたとおり、日本の役人は、戦後の日本の憲法やその制度が自分に都合のいいようにねじ曲げます。しかしアメリカ占領軍がつくっていった法律ですから簡単には変えられません。 全国、定員2万人、予算定員1万4千人の人権擁護委員が、一人ひとりが独立して調査権限を持ち、地域で人権侵害が起きている、差別が起きていると割って入って、ああだこうだと言われたら国家としてはたまりません。そこで、何をしたかというと、人権擁護委員制度ができたらすぐに法務省の地方法務局にも並んで調査権限をつけました。そして、人権擁護委員には人権擁護委員法上にある調査権限を行使しないで、人権擁護委員法上にない法務局の調査システムを作りました。それと同時にそのことを徹底的に教育した結果、今いる人権擁護委員は「調査権限ってどうやっています?」と聞くと「そんな難しいことは私たちはやりません。地方法務局にお任せしています」と言うようにみんな飼い慣らされました。そうして少しずつ少しずつ変えていき、人権擁護委員からはすっかり牙を抜いてしまいました。 また、アメリカの人たちが帰るときに、やはり人権というのは地域、民間団体であるからNGOをつくれと言われて法務省がつくったのが自由人権協会です。法務省自由人権擁護局が認可したたった一つの社団法人。そして、日本国中で認可された、たった一つの人権擁護をテーマとする社団法人ですから、人権擁護局にしか認可権限がありません。そして、その人権協会の初代理事会には、ときの最高裁判所の裁判官がずらっと並んで、官民こぞって祝福して自由人権協会ができました。当然、それはほとんど社交クラブで終わっています。70年代に審査役くずれと言われていた我々が入って激しい人権擁護の砦にしてしまいましたが、それまでは人権協会は、一時期ずいぶん左傾化していたときもありましたが、最初は非常にハッピーな官民こぞっている組織でした。 このように、基本的に日本国憲法の基本的人権を実現したのは官僚であったということです。そのことを私たちは押さえなければいけません。つまり戦前は、日本国は人権というのは外に向かって主張していました。それを国内で実行しろと戦後に言われたときに、基本的には官僚がそれを実現していったのです。
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