国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議
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1.日本社会は拉致被害者の人権侵害問題にどう対処してきたか
2.日本国憲法の基本的人権を実現したのは誰か
3.自治体人権政策の確立
4.国際人権の確立
5.この20年間、私たちは何を求めてきたのか
6.これからどうする
7.国際人権としての「食べる権利」〜一つのケーススタディ〜
8.国際人権大学院大学(夜間)への期待

【4.国際人権の確立】

 国連の人権専門官に久保田洋さんがおられた当時、私たちは国際人権ということを言い出し、彼とも一緒に仕事をしてきました。最初に我々がやったのは1503号手続きでした。1503号手続きとは、自国の大規模かつ継続的な侵害が起きている場合にそれを国連に通告すると、それをきっかけに人権委員会が自発的にその人権問題の調査に入るという手続きがです。
 日本は国際人権規約に加盟していましたが個人通報制度には加盟していませんでしたので、この1503号手続きでいこうということになりました。また、国連の人権センターの担当者でも日本の実情が分かっている人がいて、好意的にこの1503号手続きを進めてくれたということもありました。
 そこで多くの、サハリン残留の朝鮮人であるとか、あるいは日本国内での外国人指紋押捺制度や就職差別、刑事受刑者等の人権侵害など、様々な問題を国連に持ち出しました。このことをきっかけに、国連において国際人権ということをやっていることが日本国内でも分かってきたかのように思います。そして日本国政府はというと、非常に消極的でありました。私たちは、それに対して人権条約に加盟しろという動きをつくっていったと思います。
 そのときに、私たちの考えたことは比較的単純でした。つまり、これまでの日本という国は国家が人権を主張している国家人権主義の国であり、それではダメだと。国家が人権を主張していくのではなく、人々が人権を主張していくにはどうすればいいのかということで、世界に形成されつつある国際人権基準というもので、日本国政府に国際社会の常識を守れという形で迫るというのが一つ。もう一つは、地域で起こっている具体的な人権侵害の実情から迫るということであります。つまり、地域の人権政策と国際人権政策で日本という国を挟んでしまおうということをやりました。我々は外国人労働者のことであれ、女性のことであれ、色々としてきました。そして、部落解放運動がここで一つのスタイルを確立してくれたことは、非常に大事だったと思います。つまり部落解放運動は、部落差別の実情について地域で綿密な調査をし、その調査によって日本の人権侵害の状況を明確にし、それをもとに政府に突きつける。つまり、情報公開法を我々がやったときのように、アメリカにこのような良い制度・モデルがあるのだから日本にも導入しましょうと。またそれだけではなく、地域に入り込んで調査する、あるいは外国人労働者のように被害のある事件を次々とマスコミに書いてもらい、こんなに問題があるということを知ってもらう。いずれにせよ、地域における人権侵害、差別の状況をきちんと調べることによって日本国政府に迫っていく。これは女性差別と戦っている女性運動がその後、この手法を大いに取り入れかつ大きな成果を得ることができたやり方でもあったと思います。
 私たちは、調査ということで下から迫る。そして、国際人権規約等々の国際的な人権基準を紹介することで上から迫る。この二つで何とか日本国を挟んで、人権というものを人民が日本国に対して要求するものにしていきたいということで頑張ったつもりであります。
 久保田洋さんの説得もあって、自治体の国際人権政策が先行しました。神奈川、大阪がもちろん先導したわけであり、とりわけ大阪については私も多くの方からお聞きし、解放同盟も含めて頑張っているという中で、どういう成果が生まれるのかということを、当時から期待して見ていたと思っております。
 そして皆さんもご承知のとおり、1980年代後半、IMADRが設立され、1990年に、国際人権法学会が設立されました。そして、その後は1990年代、特にジュネーブに行って国際的に人権の問題を訴えようということもあって、監獄人権センターなど色々な形の国際人権NGOが続出してきて、日本でも国際人権という考え方が確立したかに思います。

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