【7.国際人権としての「食べる権利」〜ひとつのケーススタディ〜】 今まで言ってきたことを簡単におさらいしておきます。要するに日本という国は、明治の初めから国家が人権を主張する国であり、役人が人民に向かって人権を教える国でした。人権推進審議会を見ても、人権教育・啓発の部分に載っていることは、国民相互の人権の理解が増すことで解決される問題についての人権の教育をどう進めたらいいかと書いてあります。人権教育されるのは国民でしかないのです。役人や役所に対して、人権を守れというようなことが言えないのです。 日本国憲法ができても、基本的には役人が全部取り仕切ったということであります。役人が取り仕切ってきていたということで一つ、さっき言い忘れたのですが、名古屋刑務所事件。「情けの願い」と書く、情願という制度があります。受刑者が刑務所の扱いが悪いときに法務大臣宛てに出すものです。 今、日本国中の刑務所から年間数百、数千の情願が出ているわけです。あれだけ虐待されているわけですから、みんな書いて出します。ところがその情願はことごとく途中でうやむやにされているのです。刑務所長の段階で破り捨てられているもの、管区警察局長で破り捨てられているもの。つまり法務大臣宛てのものが、法務大臣には一つも届いていないので法務大臣は何も知らないということになるのです。 それに代わって出てきているのが事故報告書であって、名古屋刑務所で放水を浴びさせて肛門を裂かれて死亡した事件など、すでに検察当局が起訴している事件がありますが、あれすら報告書は死因不明となっているのです。突然死とか死因不明と書いてあって、今にいたるまで法務省は直していません。これは何だと言いますと、端的な話、苦情処理も自前でやっていた国ということです。つまり明治以来、人権実現というか、行政も省庁別縦割りで全部やっていました。日本国憲法では人権を分け持ちました。そうすると、その省庁が施策を展開しているといろんな苦情が出てきます。苦情も結局は自分のところで処理しろということです。アメリカですとすぐに裁判所です。裁判所は横断的なレメディーをする組織ですから、役所はたちまち粉砕されてしまいます。日本の場合は、まず行政庁に考え直してください、自分で反省してくださいと促します。それが行政不服審査法に載っている再審の請求、異議申立です。結局、処分庁がやるということであり、苦情処理も自前でやりましょうということです。しかし、苦情処理を自前で行うとうまくいかないのは目に見えています。自分の責任の問題を自分で解決する。困難ですから、うやむやにする。その結果、法務大臣は情願を知らないで国会で恥をかくことになる訳です。 役人が日本の国家がするべき公益はこうだと勝手に決めて、それを強制的に執行し、苦情が出たら自分で対応するというやり方で人権が考えられてきたのに対して、1970年代以降、運動体は、我々はそうではなく、地域や現場で実際に人権侵害に苦しんでいる人たち、差別されている人たちの実情を把握し、それを解決していく方向で下から人権施策を地域でつくり上げていこうとしました。それは同時に、世界的に見て国際人権として上から要求されていることでもあります。上下から挟んで、日本国による人権の独占を変えていこうということでやってきました。そして、実際にうまくいってきたと思いますし、自治体には人権政策という大きなジャンルができ上がったと思っています。 さて、そういう整理の中でこれからどうするのかですが、国際人権としての食べる権利であります。一つのケーススタディとして、食べる権利ということを考えてみようと思います。「ライツ・トゥ・フーズ」という考え方は、1990年代になって世界的にも見えてきた国際人権でして、1993年のウィーンにおける国連の人権会議で、安全・安価で、しかも文化性の高いものを食べる。それも集団として、あるいは個人としてそういうものを食べることが食の権利なんだということが謳われました。それ以来、世界各地で国際人権の課題としての食というのが問題になっています。1996年には、ローマで食料サミットが開かれ、そこでも食の権利ということが謳われ、1997年から国連の人権委員会で食の権利「ライツ・トゥ・フーズ」の検討会が始まり、そして2002年、国連は食料の権利宣言を出されるなど、食べる権利というのは国際社会では人権問題として激しく議論されています。しかし日本は、全くどこ吹く風であります。 ホームページを見たのですが、ローマでFAO(国連食糧農業機関)の総会で食の権利宣言が出された後、昨年2回目のフォローアップ会議が開かれ、日本に帰国した人たちが報告会を開いたらどうなったと思いますか。参加者60人と書いてありました。たった60人です。日本では、食べる権利ということに関して運動を展開しても60人しか来ない。そのくらい日本は無視しているわけですから、国際的な人権水準と国内の人権水準は極端にずれているというわけです。私たちは1980年代以来、このずれがたくさんあるところを何カ所も指摘してきました。いくつかの点では改善も見ました。この食べる権利もその一つであります。 食べる権利に関して、日本でどうだったかというと、戦後すぐに食料管理法違反事件というのがありました。ヤミ米を運んでいる途中で捕まって刑事罰を受けた人間が、憲法25条の生存権を確保するためにやったのだからどうして犯罪なのかと言った裁判です。最高裁はあっさりとそれを否定してしまいました。それ以来、日本の裁判所はおよそ食べる権利ということに関しては何も言わなくなった訳です。そして、農水省もあまり言ってくれないのであります。 これはもう皆さんもご承知のとおり、数年前からWTO体制になりました。今朝の新聞でも、WTO体制のもとでの貿易の自由化の交渉で、アメリカ対日本とEUが激しく対立していると書かれていました。つまり、何でもかんでも市場化してしまえという市場開放路線のアメリカと、そうはいかないという日本、EUとの対決ということになっていますが。日本はWTO体制の中で大変苦しい思いをしています。だから、自治体や企業等が中心になって、地域でこういう国際人権大学院をつくるなら食べる権利部門というのをつくってくださいよというのが私の提案です。 食べる権利といってもいくつもの内容があります。一つには、最低限度の生存を確保できていないアジア・アフリカによる飢餓の問題があります。これはまさに食べる権利の中心的課題で、国際社会でこの10年、国連の取り組みなど種々繰り返されているところであります。 二つ目が健康な生存の確保ということであり、有害食品やDNA加工のものはどうするのか、あるいはBSEをどうするといった問題から、日本の茨城県で起こった毒ガス汚染水をどうするのかということまで、様々あります。この毒ガス汚染水をどうするのかといった問題というのは、国際法の問題だからです。日本は決して国際法の適用外の地域ではありません。茨城県で旧日本軍の作った毒ガスが出てくれば、それに関する国家責任等々はまさに国際的な基準で日本が負わなければいけない問題だという意味で、これも国際人権問題であると考えます。BSEの問題ももちろんそうです。BSEの後、CODEX規格(国際食品規格)などで、肉の問題をどう扱うのかというのが大いに議論されています。国際的な規制、国際的な取り組みが求められている世界で、DNAはもちろん、様々な中国の残留農薬等も含めて有害食品をどうするのかといった問題も国際問題であります。 そして、三つ目に個人価値の尊重であります。憲法でいうと25条の健康で文化的な、13条の個人価値のところでもいいですけれども、様々な食アレルギーを抱えている人たちがいます。 先日、大阪で活動している人権条例の研究会の話を聞いていたら、滋賀の話がありました。私がすてきだと思ったのは、米パンを作っているということでした。ある地区で、くず米を粉にして米パンを作ってそれと同時に有機無農薬の野菜も売っている。そういうときに「ああ、おもしろい」と思ったのは、アレルギーのお子さんをもつお母さんが買いにくるということでした。 今、アレルギーは大問題です。パンに関していうと、小麦アレルギーやミルクアレルギー、バター等の油のアレルギー。どれかが引っかかる人はパンが食べられません。パンが食べられないから給食のある公立学校に行けないので私立の学校に行かせます。その結果、学費がかかるので、もう1人子どもが欲しくても難しくなるわけです。こうなるとやはり国家的課題だということになります。だから、子どものアレルギーというのは大変な問題だと思います。したがって、そういうアレルギーなども含めて、個人に対して多様な食が提供されていなければいけないということが分かってきたのではないでしょうか。また昔、日本の警察は外国人に対して懲らしめて、日本に二度と来たくないようにされるという方針でした。そのような中、以前、埼玉県警がすごいことをやりました。イランの人などが捕まると、留置所で豚肉入りの野菜炒めなんかをどんどん食べさせます。当然、「これ何だ?」と気になるわけですが、宗教上の理由で豚肉を食べたことがありませんから味が分かない訳です。そこで「これ何か?」と聞いたら、職員は「これは羊だ」などと言うので、変な味の羊だなと思いながらも食べてしまいます。そして散々食べたころを見計らって「お前、今食べたの豚肉だぞ」などと言って吐き出させたりして、日本というのはひどい国だと、もう懲りだといって帰らせるのです。これにはさすがに私も怒りましたけれども、イラン大使館も怒りました。あのころはアメリカのジャーナリズムか何かにインタビューされて、諸外国は呆れかえっていました。でも日本の新聞にはあまり載りませんでした。 また、クメルルージュがカンボジアを占拠したときに、ベトナムから逃げてきていた山岳民族でイスラム系のチャンパの人たちを摘発するのに住民を全員並べて、豚肉の切れ端を全員の口に突っ込み「食え!食べないやつは銃殺」などと言って何人も殺されました。食べさせられた人はもう怒り狂っているというか、人格がグチャグチャになっていました。それに匹敵することで、留置所に入った外国人にわざわざ豚肉を食べさせるのは許せない行為であることから、各々宗教の関わる食事というものが確保されていなければいけない、個人価値というものが尊重されなければいけないのです。 そしてもう一つは、文化的生存の確保であります。食事というのはやはり文化なわけで、このところ世界中で急激に強まってきているのは、文化としての食事を守ろうという主張です。それはファストフードによる文化としての食事の破壊を認めないということなのだと思います。 一方、捕鯨の禁止のように日本が先住民族文化としてこれを確保するなどと言っていますが、そういう問題もあります。あとスローフードとか地産地消の問題もあるかと思います。 もう一つの問題は、環境カロリーの問題であります。最近、ものが輸入されている中で、食物は何でも輸入されてもいいのではないか。日本で高いものを買うより安くて良いものが外国から輸入できるのならいいじゃないかという考えがありますが、これはどうかということがあります。何が問題かと言いますと、輸送コストの問題であります。例えば石油が安いですよね。例えば神戸の人が裏山から汲んできた「六甲の水」という水とアラビアから運んできた石油を、それぞれペットボトルに入れたら石油のほうが安いでしょう。だから、裏山から汲んだ水よりも安い石油というのは、石油が安すぎるのか裏山から汲んだ水が儲けすぎなのか、あるいはその両方なのかということです。 ついでにスローフードでいうと、日本は世界に誇る醸造文化で、東アジア一帯に、醤油の「醤」と書く「ジャン」の文化というものが共有されていますが、お百姓さんが一生懸命DNA加工されていない大豆を作り、お醤油屋さんが一生懸命それを醤油にして、再仕込み醤油で2年の歳月をかけてつくって瓶に入れて売っている。裏山から汲んできた水とほとんど変わらない。こういうことをやっていたら日本は滅びる。もっときちんと食の基本の部分を大事にしなければいけないと思っています。 石油が非常に安いから、船で運ばれてくる西アフリカ沖のマグロなんかをわれわれは食べているわけですが、こういうことをしてはいけないと思っているわけです。イギリスにフードマイルという考えがあることはご承知かと思います。何かと言うと、食べ物がつくられるところから食べられるというところまで何マイル移動しているのかということであります。もともとはスローフード運動の中から出てきた言葉で、地産地消を大事にしようという考えから出てきたものです。それを環境フードマイルと言います。私はいっそのこと「環境カロリー」と言ってしまいたいのですが、それはつまり、何マイルの間をどういう手段でもって運ばれたかということです。 神戸のある人が計算をしまして、鹿児島からショウガを陸送トラックで運ぶのと、中国でショウガをつくらせて山東省から船で運ぶのとでは、陸送トラックは船よりも環境負荷が高いですから輸送カロリーは同じになりました。つまり近いからいいというものではなく、動いた移動距離かける移動手段によってどのくらいの環境負荷を与えた食べ物であるのかということを考えていきたいと思うのです。 そうすると西アフリカ沖のマグロというのは、環境カロリーが高いはずです。石油が安いから目立たないけれど、石油が適正な値段になったらわれわれはとても買えません。西アフリカ沖のマグロは一切れ1万円という、値段になってしまい、気軽に買えるのは日本近海のイワシやサバばかりになります。私はそうあるべきだと思っています。つまり、環境問題と食の問題というのは、権利の問題としてつながっていかなければいけないというふうに思っている訳です。 今、日本でなされている食に関する国際交渉での日本の態度は、地域が不在であり、また人権も不在であります。ひたすらアメリカとの駆け引きだけに走っています。既得権を守るために多少、日本政府も頑張っていますがダメだと思います。そして今や、自分たちの食や農というものは、国際化を考えていかないと成立しないのではないか。私はよく言うのですが、神奈川県の食料自給率は3%で、東京都の食糧自給率は1%です。100%のうちの3%しか自給していない神奈川県の場合、埼玉県や山梨県から運んでいるというのもあるのですが、やはり日本最大の漁港、成田空港から直送されている魚、あるいは日本輸出向けにフィリピンで切り揃えられたアスパラガス、アメリカのカリフォルニアでサラダ用にきれいに処理されたレタス、そういうものを食べている訳であります。じゃあ全部やめて路地野菜に切り替えるというわけにもいかないので、やはり国際社会を意識しない農は成り立たない時代になったということです。 だから、国際社会における自分たちの責任、あるいは自分たちの国際人権としての食の権利というふうに、食の問題は国際的に考えていかなければいけません。そして日本の場合、規制業界の代弁者である日本国政府や産業界、あるいは何ら救済しようとしない裁判所などはダメで、食の問題を考えていくのはやはり地域自治体だと思っております。 いくつかの希望に見える条例などもできているかと思いますが、一つには、日本中にできている地産地消条例、あるいは学校給食、公共施設における食を総点検し、食品業界及びその後ろに控えている穀物メジャーによる押しつけ給食を何とかやめようというそういう動きがあるように思います。 それともう一つは、埼玉県の志木市で食品表示ウオッチャー制度条例というのをつくりました。これは何かというと、市民が日常の買い物の際に、食品衛生法と関係法令に基づく食品の表示基準に違反している疑いがある表示を見つけたときなど、「遺伝子組み替え食品とは」等々の食品に関する素朴な質問を市に通告するというものです。一方で市民ウオッチャーがやってはいけないことも書いてあります。市民ウオッチャーは、食品衛生法などに基づく調査権限がありませんので、次に掲げる事項や風評被害の発生及び営業妨害の恐れのある行動はできません。販売店側の同意を得ない店内での写真撮影、伝票の閲覧の要求、常識的な質問の範囲を超えるような事情聴取。 これに対して、市民ウオッチャーからの申し出があったときの市の対応は、市民ウオッチャーからの申し出事項を検証するため、事業者(販売者)、生産者、食品関係団体の代表者及び専門的知識を有する者で構成する志木市食品表示ウオッチャー委員会を設置します。そして市民ウオッチャーからの申し出事例の検証後、食品衛生法などに基づく調査の権限を有する国・県などの関係機関に対して、必要に応じて適切な措置を要請します。また、市民ウオッチャーからの申し出内容を、国・県などの関係者と調整した後に、広報誌などで随時公表します。つまり市民が地域における食の安全に全員関わろうということです。こういうふうに、食の安全とかそういうことに関して、市民が関わってくるような形でそろそろ考えている地域も出てきているのではないかというふうに思っております。
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