【6.国際人権】
多文化共生社会を支える人権とは何なのかということをみるためには、国際人権を見過ごして通るわけにはいきません。それは一国の領域を超えた普遍性を持つ人権のことを国際人権といいます。国際人権とは、実は国内人権とは異なるものではありません。国内の憲法で保障されている人権は国のもの、国際人権は国連のもの、日本には関係がない。もし、そういう考えがあるとすれば、それは大変な間違いです。人権というのは国内でも国際でも変わりありません。それ自体が普遍的なものであり、普遍的ということは、誰でも、どこでも、いつでも等しく享受されるはずのもので、そのような人権の国際的基準をまとめて国際人権と言っております。
世界人権宣言にありますように、現代の国際社会あるいは人間の住んでいる世界において、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」、これはちょっとお題目みたいですが、実はそうではありません。これを実現しなければ、平和はいつまでたっても来ませんよということです。平和が脅かされるときになって、この基本的なところに気づいてくれる人が増えることを望んでいます。
どういうことかといいますと、人の尊厳は、本来備わっているものです。法律で認めたから人の尊厳を認めましょうと、そういうものではありません。人間であれば、この世に生を受ければ誰でも持っているものです。憲法で決められようと決められまいと、法律であろうとなかろうと、人権というのはその人に備わっているものです。法律でないから差別していいということにはなりません。
それから、人権を持っているということは誰にも譲り渡せないものです。ちょっとお金がいるから私の人権を売ってお金をもらってこようかというわけにはいかないのです。
それから、人は皆平等です。最近、私はニュースで自分の幼い子を殺された人の大変つらい言葉を聞いたことがあります。殺した人に仕返しをする、敵を討つ。裁判で敵を討つ。殺した人を殺し返す、死刑にするという、この言葉が犠牲者の親から出るところを2、3度私は見ました。それを聞きますと、やはり罪を犯した人はこの世に生きる価値はないと、そういうふうに聞こえなくもありません。親の苦しみが分からないわけではありません。ただ、人権の基本的な考えは、罪を犯した人も、障害を持つ人も、すべて同じです。社会に役に立つ人も、もう動けなくなって意識のない人も、人間として同じ平等です。この考えを維持しない限り人権は崩れてしまいます。
「役に立たない人はこの世にたくさんいます。その人たちの人権を大切にしない。罪を犯して、これはもう極悪人だから殺してもいい」と思う人もいるかもしれません。でも、その人も人権を持っています。その人は人の人権を踏みにじったかもしれない。でも、その人も人権を持っている。そこまで受け入れられる社会でなければ、人権はついていきません。
そういう人権を表わしたものが国際人権文書といいます。世界人権宣言、それから二つの国際人権規約というものがあります。これらは「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位によるいかなる差別もなしに行使されること」を求めています。外国籍の人も含めて多様な民族的、文化的背景を持つ人々がそれぞれの違いを大切にし合える社会をつくるためには、国際人権の国内的保障がどうしても必要です。
国際人権基準というのは、国々が合意して署名をし、批准した条約に主に現れておりますが、そればかりではありません。世界人権宣言、これは条約ではありませんが、皆が賛成して、国連総会で受け入れたものです。その他にもいろいろな規則が定められています。そういうものを総体として国際人権基準と言っております。
世界人権宣言を見ると、人権として認められるものがどういうものか、だいたい概観できます。皆さん、一度これをお読みになることをお勧めいたします。
日本はこれらの人権条約にほとんど加盟しています。日本国憲法第98条によりますと、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とあります。したがって、国内でも国際人権基準は有効に保障されるべきもので、国内法が国際人権基準に沿って整備され、運用されるはずであります。「はずであります」ということは、それができているとは言えないということです。人権侵害があれば、裁判に訴えて侵害を除去してもらい、損害に対する賠償までできるはずです。そういうものができて、初めて人権の有効な保障といえるのではないでしょうか。
|
|
|