【7.人権の国内受容】
「日本には誇るべき道徳的伝統と社会生活を律する人倫の道がある」とよく言われます。古くから思いやりとか融和を大切にしてきたのであり、そこへもってきて個人の権利の主張とか争いの解決とか、裁判所に訴える、そういう考え方は日本人の人間関係、社会関係、秩序になじまない、そういうことを言う人たちがいました。
果たして、それは正しいのでしょうか。絶対君主制とか独裁体制のもとであればともかく、今の民主主義、国民主権と言われる国内社会にあっては、やはり複雑に絡む人間関係、社会問題の公正な解決を図るためには権利とか義務とかというものを考えないといけない、どうしても必要であると思います。
これまで人権は、日本社会には異質の外来の観念だということが言われてきました。確かに歴史的に見れば人権概念は西洋社会に生まれて、そこで育ってきたものでありましたが、一人一人の人を等しく尊いものとする考えに基づく人権の考え方と、それを社会で実現する制度、そういうものが、人が大切であるという、どんな社会にも見られる普遍的に尊ばれる価値に通じるものとして、世界中で受け入れられてよいものだというのが今の国際社会の考えです。
われわれは日本に住んでおりますが、日本にいながらヨーロッパの音楽を聴きます。400年経ってもモーツァルトは素晴らしい。それから、絵もそうです。文学もそうです。それから、われわれはこの150年、ヨーロッパから、アメリカから、科学技術をどんどん取り入れてきました。これは世界にある自然の真理を使ったものです。いわゆる真、善、美、これはどの国でどういうふうに出てきたものであろうと、人間の心にすべて訴えるような普遍性があるのだと思います。そういう普遍性のあるものであるからこそ、われわれは動かされる。人権というのはそういうものではないでしょうか。
例をあげますと、京都の竜安寺の石庭です。世界中から人がやって来ます。私の知っている人たちもここにやってきて、これは素晴らしかったと言います。何が素晴らしかったか、何か分からんけど素晴らしかったと言います。あれは何だと聞かれたのですが、私も何だと言われてもよく分かりません。15の石があるのですが、どの角度から見ても15が全部一度に見えることはありません。それはまるで世界の真理を、宇宙の真理を表すのに誰が見てもそれぞれ一面が欠けている、全部合わせて初めて真理が出てくる。ということは、日本の人もアフリカの人も他のアジアにいる人も別々な見方をしているわけで、同じものを見たときに同じような感じを持ったり、考えを持ったりする人はいないかもしれません。そういうことを表しているのではないかと思います。ただ、どんな社会にも普遍的な価値、守るべき伝統がある、日本にもそれがあると思います。
そうしますと、それぞれの社会にある普遍的な価値をもとにして、普遍的価値としての人権を植えつける作業、それをしなければならないということです。それぞれの社会の特性を尊重しながらも、人を大切にするという人権の普遍的価値を見失わないようにしなければなりません。法概念とか法規範としての人権、大学でそういう理論が議論されますが、制度としての人権保障、日本での法律、どこかの国での法律、そこで人権をどう定めるのか。その実現としての行政施策、大阪府、大阪市、堺市、いろいろありますが、そういうところで人権を実現するためにいろんな行政施策があります。そういうものが人々の意識に人権が普遍的価値として受け入れられていなければ、規範として社会に根付くことは難しいのです。
こういう法律がありますよと言いましても、本音は「ちょっとそうじゃないよ。いや、人権ということを言う人はうるさくて仕方がない」。私が大阪に行って人権の仕事をするというと、「人権と言って、うるさいことばっかり言う人がいるが、あれはしょうがない」と言われます。そういう意識だといくら法律があっても、いくら憲法があっても、いいことを言っても、本音が違うと絶対にうまくいきません。
社会生活の中でこの人権の受容の努力、積み重ねが人権啓発、人権教育という形で今行われていると思います。それはここにいる皆さんの多くの方が日ごと努力し、それに努めていらっしゃるかと思います。
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